森の生活的おどり観/生命の進化の歴史におもう舞踏の変容/いつもそばに「胎児の世界」を

森の生活的おどり観/生命の進化の歴史におもう舞踏の変容/いつもそばに「胎児の世界」を

「とどのまつり」のいわれを説明した回でもあった通り、(→とどのまつりはとどのつまりではない)私のおどりの根元には動植物などの森羅万象への憧憬があるわけですが、もともと「とどのまつり」のテーマを考えると、生命の根源は海から発生してそれらが進化を遂げて陸に上がったものの、哺乳類であるにも関わらず海で生きていくことを選んでしまった「海に住む哺乳類」の陸に上がった時の非力さというか、手も足も出ない様子を「どうしてこの生き物たちはこの道を選んだのであろうか」という悲哀やこの独自の動きや体の使い方などへのいつくしみから発生したような気がします。つまり彼らは動物の進化の経緯において非常に興味深い生命群であるとおもうのです。そもそも全ての動物たちはそれこそ何億年かかけて紆余曲折を経て進化し、とどのつまり、現在の生態に至っているわけですが、そういった地球の動物たちの進化の歴史をマクロだとすると、ミクロベースで同じような進化を遂げているのがそれぞれの動物個体の中で受精してから生まれるまでの生態だと思います。つまり、規模は違えど壮大な地球上の生き物の進化の歴史も、生き物それぞれの生を受ける進化の歴史も非常に近いものなんではないか。なんとなく私が自分の舞踏のテーマをそういった「生命の根源」に考えていたころに私のふわ〜〜〜とした言葉にできない考えの指標となったのは「胎児の世界」(三木成夫著)という本でした。踊り始めた当時は文庫版を、今は新書版を手元においています。特に読むというわけでもないんです。でもとにかく傍においてあります。

「胎児の世界」(三木成夫著)/中公新書版

こちらの著書の中に出てくる図表やイラストも、またかなりのおどりごころをくすぐられるもので、それらをパラパラと眺めただけでもおどりへの栄養となります。久しぶりにページをめくったら、今の自分としてきちんと読んでみたくなりました。通読した記憶も遠い過去のこと。今はまた違う心地になるのではないかと思います。私が自らの舞踏の中で「変容」を体現することを最も重要なことと考えてきたことはそういった生命の進化の歴史を、一個体が体現したらものすごいことになるに違いないという確信があったのかもしれません。自分にとっておどりは「変容」=「進化」ありきだったのかもしれないなと思います。


Roomin’が舞踏をはじめたことから持っているバイブル的存在
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